【十和田湖】湖底に眠る戦闘機「キ54」 発見から引き揚げまで地元民が徹底解説

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こんにちは、青森県八戸市出身のukaです。

十和田湖は青森県と秋田県に位置する湖で、奥入瀬渓流と合わせて北の景勝地として名高い神秘的なスポットです。海抜400メートルの山上湖で、二重カルデラ湖として世界的にも有名です。

秋の十和田湖

実はこの十和田湖、たくさんの不思議な話があるのです。

戦時中の昭和18年(1943年)9月27日、秋田県能代飛行場から青森県八戸飛行場まで飛行していた旧日本軍機キ54がエンジントラブルにより十和田湖に落下しました。

4人の乗員がいましたが、救助されたのは一名のみ。

そして墜落から約60年後の2009年に引き揚げが計画され、失敗を経て2012年に引き揚げられます。

引き揚げ後は青森県三沢市にある三沢航空科学館にて展示され、その後製造元である立飛ホールディングス(現在は不動産会社)に返還されました。

今回この記事では、キ54の墜落と引き揚げについて詳しく解説したいと思います。

参考・引用させて頂くのはキ54の発見から引き揚げまでをまとめた本「縁欠不生」。著者は青森県立三沢航空科学館の館長でもある大柳繁造氏です。

動画で見たい方はこちら↓

キ54はなぜ墜落したのか?

キ54は樺太の落合飛行場を本拠地とし、北東方面の偵察・警戒に従事していた北部第74部隊の偵察機隊(百式司偵)です。秋田県能代に訓練隊をおいて、搭乗員訓練を行なっていた飛行第38戦隊でした。

この墜落は、操縦訓練と資材運搬をかねて能代飛行場から八戸飛行場へ向かう途中の事故でした。

当時の十和田監視所からの目撃証言はこちら。(監視所とは、敵機襲来に備えて各地に設置されていた施設です)

「十和田監視所において監視中、遥か南西から飛行機が一機飛来、初め西の海(西湖)を通り、次に中山半島を越えて急降下し、エンジン故障のためザンブと湖水に落下し、御倉半島前(中湖)で再び飛び上がり、途中エンジンに故障があったのか急降下しそのまま湖水に沈没、その際飛行機から湖水に飛び込んだ辻伍長だけが救助されたのである」

小舟に乗ってヒメマス漁をしていた金村末吉氏という男性が、助けを求める搭乗員の姿に気づき救助に向かいましたが、当時は手漕ぎ漁船のため辿り着くのに20分はかかり、機体は既に沈んでいました。

金村末吉氏

墜落の原因は燃料キャップの締め忘れか

当時の気象、機体の状態、損傷から事故原因について、元海上自衛隊の相沢昭雄氏により仮説が立てられています。

前提として、能代から十和田湖経由で八戸までの障害になるような気象条件はありません。十和田湖上空は風が弱く乱気流の恐れもありませんでした。

引き揚げられた機体を調べたところ、左燃料キャップの固定部分が腐食しタンク内に落ちていました。

能代出発時の飛行前点検でキャップが確実にロックされておらず、タンク内の燃料が霧状に漏れてエンジンが停止してしまった可能性があります。

更にコルスマンウィンドー(気圧調整値を表示するもの)は、764にセットすべきだったのになぜか770になっていました。

その挙句キ54は本来搭載されるべき無線機を搭載しておらず、飛行中、最新の気圧データを知ることはできませんでした。

しかも、4名の飛行少年兵は総飛行時間250時間弱程度と経験が浅く、「このような搭乗員の組み合わせを指定した能代訓練隊の飛行管理には大きな疑問が生じる」と相沢氏は指摘しています。

キ54が墜落した原因は、左燃料キャップの締め忘れを始め高度計の設定ミス、搭乗員の経験不足など様々な要因があるようです。

元海上自衛隊の相沢氏の仮説

相沢氏の仮説を元に事故を時系列順にまとめてみます。

1943年9月27日、飛行第38戦隊能代訓練隊の渡里伍長、浅井伍長、辻伍長、牛内兵長の4名は能代~八戸間の物品輸送の任務を受けていました。

操縦員は気圧を係の者に質問し、能代が761mmHg、八戸は764mmHgであることを確認しました。

13時30分に離陸を開始。その後、操縦員は八戸での着陸に備え高度計を修正しますが、離陸前に確認した764ではなく770にセットしました。

飛行中に左燃料キャップから霧状に燃料が漏洩し、エンジンが停止。右主タンクに切り替えようとしますが、空中での再始動に不慣れなためエンジンは停止したままの状態です。

右エンジンだけでは水平飛行できず、十和田湖の御倉半島の手前・中湖へ不時着水を決意しました。

着水の衝撃を最小限とし機体を破損させない着水をしており、飛行経験の少ない操縦員の操縦技術は称賛に値すると相沢氏は評価しています。

2名の操縦士は機首上部の脱出用ハッチから、胴体部分にいた2名は胴体後部の出入り口から脱出したと想像されます。

陸軍機の搭乗員は救命胴衣を着用しておらず、機内に救命ボートの装備もありませんでした。

9月下旬の十和田湖の水温は17℃程度と低く飛行服・飛行長靴を履いた泳ぎは困難で、約100メートル先の湖岸に辿り着く前に心臓麻痺などを起こし溺死した可能性があると見ています。

辻伍長は着水の衝撃で負傷し、泳げないと判断し主翼の上にいたところ、ヒメマス漁をしていた金村末吉さんに救助されました。

辻伍長はなぜ「死なせてくれ!」と叫んだのか?

搭乗員4名についてもう少し詳しく話します。

救助された辻伍長は「墜落した機体は複葉の練習機で搭乗員は2名だった」と事実と異なる証言をし、何度も「死なせてくれ!」と叫んでいたそうです。

このことに対して、著者大柳氏の見解はこちら。

「陛下の飛行機を壊して申し訳ない」という責任感から、これは一死をもってお詫びしなくてはという機運であった当時の少年飛行兵の気持ちであったと思われるし、更に防諜上のことも考えて、わざと複葉の練習機であったとか、乗員は2名であったと言っていることが推察させられるわけである。戦時中のことは今となっては想像しづらいことであるが、事実このようなことが当然考えられるのである。

戦後、少年飛行兵の同期生が辻伍長と面談し事故当時のことを聞こうとしましたが、事故については一切語らなかったそうです。

辻伍長以外の3名の遺体は見つかったのか?

十和田湖小中学創立78周年記念誌に、当時のキ54の墜落について記録が残っています。

記念誌の中で、「遭難者の葬式を挙行した、昭和18年10月8日遭難現場で遭難者の遺族も出席して水葬式を挙行した」と書いてあるようですが、墜落当時は遺体は上がらなかったと思われます。

なぜなら2012年の引揚計画時に、青森財務事務所からの要請で3人の遺体確認を行なっているからです。

「搭乗者遺体確認の要請を受けて、ウィンディ・ネットワーク社が手配してキ54の機内にあると思われる3人の遺体確認を行った」

墜落当時に遺体が上がっていたら、遺体確認はなかったでしょう。

では引き揚げ時に遺体は発見できたのかというと、不自然なほどに一切書かれていないので不明です。おそらく見つからなかったのではないでしょうか。

引き揚げ後、大柳氏含む関係者で墜落現場まで船で向かい、船上で慰霊式を行いました。

辻伍長はまだ生きているのか?

辻伍長以外の搭乗員3名はフルネームで記載されているのに、辻伍長だけは下の名前が記載されていません。

「少年飛行兵史」を始め少年飛行兵についての豊富な資料があって、なおかつ殉職者家族の「引揚同意書」を得るために戦友会、遺族会へ長期に渡る調査をしていたのに、辻伍長だけ下の名前がわからないというのは不自然です。

辻伍長はまだ生存されているか、つい最近まで生きていたか、もしくは北海道に子孫がいるのかもしれません。

失敗に終わった1回目の引き揚げ

ここから、1年半に渡って行われた引き揚げについてお話します。

1998年に大柳氏が図書館で、「十和田湖に眠る陸軍機」という引き揚げ運動の記事をたまたま見かけたのがきっかけです。

2010年にウィンディーネットワーク社が初めてキ54の水中撮影に成功。写真がTVなどで大きく放映され、大柳氏を中心に引き揚げ計画が本格的にスタートしました。

まず、引揚用の船が入り込めない十和田湖の環境に合わせたフロートと呼ばれる船を準備しました。

6m ×9.36mの立方体のような船で、四隅に引揚用のウィンチ、発電装置などを搭載しています。

流れとしては、引揚現場まで別の船でフロートを引いていき音響測深機などを使い、現地の水深を確認して湖底にある飛行機に合わせてアンカーを打つ。

更にダイバーを降下させ、機体上方に釣り天秤を誘導する。引揚用に準備した幅広ベルトをエンジン、プロペラ軸、胴体部分に掛ける。

釣り天秤とフロートを数か所連結させ、水深6~7mのところまで機体を引いていく。最後にクレーンで機体を浮上させて、フロート上に機体を回収する、というものです。

設計、計画に携わったのはウィンディネットワーク社、青洋建設、ダイバー会社鉄組。

引揚が開始されたのは2011年3月20日。東日本大震災直後の厳しい社会情勢の中で行われました。

活動拠点は、辻伍長を救った金村末吉さんの実子、春治さんが経営する民宿・春山荘です。

引揚当日

入念に計画・準備したはずですが、フロートを墜落現場まで引いていく船が朝から故障してしまい、更に重量オーバーで発電機を下ろしたりと1時間遅れの出発となりました。

更に、ダイバーが低体温になり作業が中断。原因はダイバーが背負っている酸素ボンベのレギュレーター(調整弁)が凍結したためです。この時十和田湖の水温は2度でした。

ダイバーの一人が寒冷地用のレギュレーターを函館まで取りに行くことになり、午後4時発の函館行きのフェリーに乗ります。

帰りの便は深夜12時過ぎで、寒冷地用のレギュレーターが現場に届いたのは午前3時でした。

翌日、朝7時から作業が開始されました。ウィンディーネットワーク社の測定で天秤が機体の上に下ろされます。

ダイバーが潜水し幅広ベルトを機体に装着させ、午後2時頃、引き揚げが開始されました。大型ウィンチで、まずは6m巻き上げます。

ダイバーが水中カメラを持って確認。大柳氏を始め関係者はキャビンの上で映像を確認し、大きなショックを受けました。

なんとそこには、キ54の胴体が無残にもベルトがめり込むような形で切断された映像が映っていたのです。

引揚を続行するか中止するか議論になり、「みんな水中撮影のビデオの映像を想像しているだろうから、このような姿で人目に曝すのは忍びない」という青洋建設の意見で、引揚中止が決定しました。

2回目の引き揚げ

引揚失敗に意気消沈していた大柳氏ですが、再度引揚の計画を打診します。損傷した機体を再度引き上げるために、「エアーシート」を採用しました。

エアーシート

エアーシートとは各部分に取り付けることによって移動を助け、湖底からの引き揚げを緩やかにさせるものです。

折りたたんだ状態で水中に投げ入れ、ダイバーが酸素ボンベで膨らませて使用します。更にアメリカ製の新型高性能小型水中カメラロボットが導入されました。

2回目の引き揚げは、天候もよく台風の心配がない7月中旬に決定されました。

大柳氏はその間、引き揚げの手がかりを求めキ54の同型機が展示、保管されている北京、オーストラリアへ渡っていました。

その道中、幸運なことに「キ54取り扱い参考・付図」を入手。付図とは説明書のようなものです。

そして、予定から一か月遅れの8月22日、二回目の引き揚げが開始。

ウィンチを巻き上げ、10m、15m、25mと順調に引き揚げていきますが、右発動機のプロペラ部分が泥にのめり込んでおり、作業が難航しました。

更にダイバーが深度酔いを起こし、右発動機引き揚げは翌日に持ち越しになりました。

ダイバーは「もう限界ですよ。泥の煙幕で作業はできません。このあたりで諦めましょう」と弱音を吐きますが、

「ここまで来て、どうして辞めることが出来ようか。あと一歩だ!」と青洋建設のリーダーである高橋氏が活を入れます。

引き揚げ開始から一週間以上経過しており、みな憔悴していました。大柳氏は引き揚げを願って、十和田神社に千円札を賽銭箱に投げ入れます。

翌日9月3日の朝、右発動機が難なく陸揚げされ、一年半に渡った引き揚げは成功しました。

その後

引き揚げ後、高圧洗浄、防錆処理がされ、11月から三沢航空科学館にて展示されました。

TVや雑誌、多くのメディアに取り上げられ、海外でも話題になったようです。航空ジャーナリスト協会、そして80歳を超える元少年飛行兵達が来館し、引き揚げの感動を分かちあいました。

現在は製造元である立飛ホールディングズが保管していますが、今後は立川市が保存をし展示する予定だそうです。詳細→立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

まとめ

戦時中に十和田湖に墜落した戦闘機キ54についてまとめました。キ54は1943年に墜落し、69年後に多くの人の協力によって引き揚げられました。

縁欠不生にはその他たくさんの面白い引き揚げ秘話が掲載されています。例えば、引き揚げ後に錆抜きをする必要があったのですが、廃校のプールを使って1500万円以上かけて防錆処理をしたという話など。

そして引き揚げ成功に関して喜ぶ人が多数を占める一方で、キ54の現役時代を知っている元少年飛行兵の「十和田湖の湖底に安らかに眠っていたほうが良かった」という意見も印象的でした。

縁欠不生はオンライン販売はしていないようなので、もし三沢航空科学館に行くことがあればミュージアムショップを覗いてみてください。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

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