【メドツが出るぞ!】メドツについて書かれた「田向風土記」がめちゃくちゃ面白かった件

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こんにちは!青森県八戸市出身のブロガーのyukaです。

今日は故郷・八戸市の「メドツが出るぞ!」の看板についてお話ししたいと思います。

もう既にたくさんの方がメドツの看板について詳しく書いており、ネットでざっと調べるとこんな感じの情報が出てくると思います。

  • メドツ=八戸の方言で「カッパ」
  • 約40年前、水難事故防止のために田向地区に設けられた
  • ニュースやテレビ番組に度々取り上げられていた
  • 危険の元となっていた用水路が埋め立てられるため、2015年に撤去

これだけでも十分に理解できるのですが、実家から借りてきた「田向の風土記」という書籍から引用して、メドツの看板についてもっと突っ込んで書いてみたいと思います。


「田向の風土記」とは、メドツの看板があった田向地区の歴史を旧石器時代から記した本です。縁があって親戚から拝借しました。

なんと発行者の方の寛大なお心遣いにより、メドツの話を含む数ページ分の掲載許可を頂きました。

ご興味のある方はこちらからお読みください。→【田向の風土記】メドツに関するページを掲載

それでは「田向の風土記」を参考に、「メドツが出るぞ」の看板について書いていきたいと思います。

「メドツが出るぞ」の看板はどうして立てられたの?

「きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ」の看板は、昭和40年代に八戸市吹上地区防犯協会と八戸市吹上青少年協議会が設置しました。

設置場所は館越山のふもとです。

どうして看板が設置されたのかというと、用水路には蓋がなく危険な場所であったからです。

昭和40年代に田向少年団の一員が古老からメドツの話を聞き、メドツで注意喚起を促すことを考案しました。

それが「メドツが出るぞ」の看板になります。

その後、老朽化のために昭和51年(1976年)7月28日に同じ文面で新設。それが平成27年(2015年)まで残っていた看板です。

平成27年(2015年)3月、用水路の埋め立てと共に看板も撤去されました。

尻内、櫛引、是川、島守など八戸市内各地でカッパの昔話が残っているそうです。本書には「水難事故防止のためにもカッパの伝説が多いと思われる」と書いてあります。

以下の看板は、是川方面にある新井田川の川べりに立てられたものです。最近設置されたもののようですが、八幡淵にいたとされるかっぱの伝説についての内容です。


かっぱ(メドツ)のふるさと八幡淵
松舘川と新井田川の合流するこの辺りは、八幡淵といわれ、昔は木がうっそうと茂り、水深も深く、何か不気味な場所でした。
それでも子供達にとっては、水泳を楽しむ格好の場所でもありました。ここで泳ぎを覚えた子供達もたくさんいたそうです。
そこで昔の人達は、「ここにはかっぱが住んでいて悪さをするから気をつけろ、足を引っ張られるぞ、ダッコウ(肛門のこと)を抜かれるぞ。」注意をうながしました。
それ以来この淵は、かっぱの住む場所と伝えられてきました。
今でも「一太郎かっぱの相撲」の伝説や、かっぱとの約束できゅうりを食べない旧家がある等、不思議な話しが伝えられています。
もしかしたら、本当にかっぱが今も住んでいるのかもしれませんよ。

続いて「田向の風土記」より、田向地区に伝わるカッパのお話を紹介します。

八戸に伝わるカッパ伝説「メドツからの贈り物」

「田向の風土記」より、「メドツの宝物」という印象的なお話をわかりやすく紹介します。

長治という若者、メドツから手紙を受け取る

昔、八太郎沼のほとりを長治という若者が歩いていると、メドツが出てきて「お前はどこへ行くのだ」と尋ねました。

わァ勘太郎堤の方さ行ぐのだ(僕は勘太郎堤の方に行くのだ)

そんだら(そうしたら)鍛冶町堤に仲間のメドツがいるので、この手紙を届けてくれ(※堤・・・ため池)

と言って、メドツは長治に手紙を渡しました。

途中、長治は村の庄屋さまにばったり出くわしました。(※庄屋・・・村長)

どごさ行ぐのだ(どこへ行くんだ?)

メドツの手紙ば持って鍛冶町堤に行ぐどごだ(メドツの手紙を持って鍛冶町堤に行くところだ)

メドツの手紙ってどったらもんだ、ちょっと見せでけろ(メドツの手紙とはなんだ?ちょっと見せてみろ)

その手紙を開けてみると、「その男のけっつぁ、うまいすけ、うがこの男のけっつ、取って、け(この男の尻はうまいから、お前はこの男の尻を取って食べろ)」と書いてありました。

このままでは長治は食われてしまうので、「よしよし、そんだら手紙を書き換えてやるべ(そうしたら手紙を書き換えてやろう)」と言って、「この男にはいつも世話になっているから、宝物をやってくれ」と書き直しました。

メドツに手紙を渡し、宝物を受け取る

長治が堤に着くと、堤の中から一匹のメドツが現れました。

手紙を受け取るとメドツは「そうか」と言って、「宝物は一代のものか、二代のものか、三代のものか」と聞いてきました。

長治は一代のものが一番よいと思い、「一代のもの」と答えました。

するとメドツは長治に石うすをひとつ持たせ、水の中に姿を消しました。

メドツからもらった石うすのおかげで長者となる

村へ帰ってきて、その石うすを回したところ、中からお米がどんどん出てきました。そのおかげでどんどんお金が貯まり、長治は長者になり、鍛冶町堤のそばに立派な家や蔵を建て、きれいなお嫁さんをもらいました。

ところがそのお嫁さんが欲張りで、もっともっと米が出るようにノミで石うすの隙間を削ってしまいました。

すると石うすは怒って空のかなたへ飛び去り、秋田まで飛んで行き、今でも土の中を回っているといいます。

それで八戸ではあまり米が取れないことが多くなり、秋田は米どころになったと伝えられています。

そして宝物をなくした長治は一代で滅んでしまいました。かつて米の糠を積んだところが糠塚(八戸市の地名)で、もみがらが山になったところが長者山と言われています。

お話はこれで以上となります。

八戸地方とカッパのゆかりは深く、多くの民話や伝承が残されているそうです。2016年には八戸市博物館で「かっぱ展」が催されました。八戸市博物館で「かっぱ展」 カッパにまつわる史料67点展示

今回紹介した「メドツの宝物」もかっぱ展で紹介されていたと思われます。

八戸市民ならば、糠塚、長者山という地名はもちろんご存知ですよね。八戸に伝わるカッパの伝説と、地名の由来も知ることができる貴重なお話です。

参考文献・・・「南部昔コ」正部家種康、「水明ふるさと」上田三蔵、「かっぱ展」八戸市博物館

「メドツが出るぞ」の看板は今はどこにあるの?

看板は2015年に撤去されてしまいましたが、現在は八戸市博物館に収蔵されています。

コロナがだいぶ落ち着いたので帰省のついでに行ってきました。看板は2階に展示されています。

撤去されたと聞いてちょっとさみしかったので、博物館で見た時は思わず「あ〜!」と声を上げてしまいました。このインパクトのある字面、懐かしいです。

まとめ

青森県・八戸市の「メドツが出るぞ」の看板について簡単にまとめました。

縁があって「田向風土記」という書籍を親戚から借りることができたので、本書の中から看板の誕生秘話と「メドツの宝物」という伝説を紹介しました。

看板があった付近は鬱蒼と木が生い茂っており薄暗い雰囲気です。用水路も撤去されるまで蓋がない状態で、割と本気で危険な場所だったので、近づく住民はいないように見えました。

看板があった付近

看板が設置されたのは水難事故防止のため、というのは地元民からしてもかなり信頼できます。

ネタにされつつも市民に愛されていたので、撤去の時には結構話題になりました。現在は八戸市博物館に展示されております。

設置されていた時代は知っているけど博物館には行ったことがない、または八戸には行ったことないけどカッパについて調べている、という方はぜひ行ってみてくださいね。

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