山で遭難して生還した人が持っていった食料・装備まとめ

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山岳遭難系の本を読んでいたら、生還した人達が持っていた食料、装備などが気になってたのでまとめてみました。

参考にしたのはこちらの2冊、ドキュメント単独行遭難、ドキュメント生還-山岳遭難からの救出です。著者は羽根田治さん。

2冊の中からピックアップしたのはこちらの3人。

  • 幻覚・幻聴に悩まされながら生還した斎藤さん(57歳)
  • 大怪我をしながら、アリ・ミミズ・コケを食べて14日間生き抜いた多田さん(30歳)
  • わさびマヨネーズで命をつないだことで有名な浦田さん(59歳)

それでは書いていきます。

幻覚・幻聴に悩まされながら生還した斎藤さん(57歳)の場合

ゴールデンウィーク中の5月4日の朝、斎藤さんは奥秩父の唐松尾山を登り始めました。
お昼頃に山頂に到着。しかし、下山中に道に迷ってしまいます。

救助されるまでの4日間、斎藤さんは残雪の多い道をさまよい、寒さに震えながらビバークし、幻覚や幻聴に悩まされながら、なんとか生き延びます。

途中、クマと遭遇しましたが大声をあげて撃退しました。

遭難から4日目、標高2040mの高台の上で、携帯電話の電波が入ることに斎藤さんは気づきました。
斎藤さんは妻と警察に電話をして、無事に救助されました。

斎藤さんが持っていった装備・食料

①上下のレインウェア、②携帯電話、③デジタルカメラ、④多機能リストウォッチ、⑤ナイフ、⑥懐中電灯、⑦折りたたみ傘、⑧ビニールシート、⑨ライター、⑩マッチ、⑪地図、⑫コンパス、⑬ファーストエイドキット、⑭クマよけ鈴、⑮着替え、防寒具(セーター)、⑯食料(サンドイッチ、パックのご飯、サンマの缶詰、魚肉ソーセージ、飴、味付け海苔、ポカリスウェット1.5L、ミネラルウォーター1.5L)

日帰りの予定だったので、食料はあまり持っていなかったようです。
登山初日~遭難2日目までは、サンドイッチとパックのご飯、味付け海苔を食べました。
3日目はサンマと缶詰と黒飴2、3個のみ。残ったのはソーセージ一本と飴数個だけだったそうです。

当日に来ていた服

Tシャツと長袖シャツ、下はアンダーウェアに登山用のパンツ、ストック。

奥秩父・唐松尾山の場所

アリ・ミミズ・コケを食べて14日間生き抜いた多田さん(30歳)の場合

2010年8月のお盆に、多田さんは両神山へ登山へ出かけます。お昼頃に無事に登頂。
しかし下山中に間違った道に進み、足元を滑らせ斜面を転がり落ちてしまいます。

遭難から救助までの道のりは壮絶なものでした。転落した際に左足は骨折し、骨が飛び出し、傷口にはウジ虫やハエがたかって、腐乱臭が漂うほど。

夜はライターで新聞紙や登山ガイドを燃やして焚火を作り、寒さをしのぎました。

水がなくなると、ペットボトルに尿を溜めて飲み、食料が底を尽きると、地面を歩いているアリ、ミミズ、コケをむしって食べました

6日目にはついに歩けなくなり、横たわっているだけとなります。尿は垂れ流し状態。救助されたのは、遭難から約14日後でした。

斎藤さんが持っていった装備・食料

①40リットルのザック、②上下セパレートタイプの雨具、③折り畳み傘、④ヘッドランプ、⑤ホイッスル、⑥ライター、⑦レスキューシート、⑧ナイフ、⑨食料(おにぎり2つ、ナッツ、飴玉)、水1.5リットル、⑩着替え(長袖のネルシャツ、長袖のTシャツ、入山前に着ていたTシャツ)、⑪マフラー、⑫手袋、⑬母親のガイドブック、⑭ネットで調べた情報をプリントアウトしたもの、⑮筆記用具、⑯ウォークマン、⑰デジタルカメラ、⑱新聞紙)

当日に来ていた服

頭に帽子、ポリエステルの長袖Tシャツの上に半袖のTシャツを重ね着、下は登山用の長ズボン、足回りはハイカットの登山靴。

その後斎藤さんはどうなったの?

左足切断を覚悟していましたが、手術は成功して徐々に回復。入院は3ヶ月以上かかりましたが、一年後には無事に退院、職場に完全復帰できたようです。 

秩父・両神山の場所

わさびマヨネーズで生き残ったことで有名な浦田さん(59歳)の場合

遭難したのは1999年とかなり昔ですが、わさびマヨネーズで17日間生き延びたことは、当時ニュースで取り上げられ話題になったようです。

1999年5月2日、浦田さんは妻、母親、妹夫婦とともに草津温泉へ旅行へ向かいました。

サービスエリアに寄った時に、子ども達のお土産にとわさびマヨネーズを購入。これがあとで自分の命を救うことになるとは、と浦田さんは振り返ります。

温泉旅行から大阪へ戻り、浦田さんは装備を整えて岩菅山へ一人で向かいました。

浦田さんが持っていった装備・食料

①折り畳み傘、②一眼レフカメラ、③サンダル、④雨具、⑤上下の夏用パジャマ、⑥タオル2本、⑦25000分の1地形図。⑧食料は小さめのおにぎり4つ、卵焼き、かまぼこ一本、輪切りハム1パック、納豆一つ、リンゴ1個、レモン1個、若干の生野菜(ニンジン、キュウリ、レタス)、使い残しのチューブ入りバター、アメ玉3個、わずかに使ってあったマヨネーズ1本(300g)妻が持って帰るのを忘れていたお土産のワサビ入りマヨネーズ1本。

※浦田さんの装備は、日帰りといえ不十分だと著者は指摘しています。コンパス、ストーブ、ライターあるいはマッチ、ツエルトや着替え一式が必要だと言っています。

当日に来ていた服

靴は革製の登山靴、下はニッカーボッカーにウールのニッカーホース、上は綿の長袖のアンダーウェアに長袖シャツ、さらに登山用の長袖シャツを着て、その上から防寒具のアノラックと雨具。

遭難〜わさびマヨネーズで命をつなぐ

浦田さんは午後3時頃に登頂します。同じ道を引き返すのはおもしろくないと思い、上りとは別の道を下って遭難してしまいました。

浦田さんはなんとか自力で下山しようと奮闘します。沢を泳いでわたり、寒さに震えながら木の下でビバークしました。

手を雪面に突き刺して登ってため、両手のあちこちの皮膚がやぶれて出血し、触れるだけで痛みました。

両手の凍傷はその後さらに悪化します。紫色に変色し、グローブのように大きく腫れ上がって、指はまったく使えない状態に

食料は3日目でほぼ尽きてしまい、バター少量とマヨネーズだけが頼りとなりました。

マヨネーズを食べるのは1日2、3回。雪のあるところでは雪の上にマヨネーズをかけて食べ、凍傷で手が言うことをきかなくなってからは、口で吸い出して食べたそうです。

POINT

浦田さんが1日にとったマヨネーズの量は約30グラム
カロリーに換算すると約200キロカロリーになり、これはお茶碗一杯分のご飯とほぼ同じカロリー量に相当します。

マヨネーズで命をつなぎながら浦田さんは岩菅山をさまよい続けます。

5月21日の朝、ヨモギで手の治療をしたあと、浦田さんは倒木の上で横になりました。

思わず寝入ってしまったところを、近くを通りかかった釣り人に声をかけられ、無事に救助されました。

志賀・岩菅山の場所

まとめ

山で遭難して生還した人達が持っていた食料、装備をまとめてみました。いかがでしたでしょうか。

挙げた3人と同じ装備をすれば遭難した時でも生還できる、ということではありません。しかし遭難した時に、どの装備がどのようなタイミングで役に立ったか、持っていた食料はどの程度持ったか、もし自分がそういう目に遭うとしたら何が必要か不必要かなど、視点を様々に変えて読むと大変興味深いと思います。

登山をする人はもちろん、普段山へは全く行かないという人でも読む価値のある2冊です。気になった方は読んでみてはいかがでしょうか。

この記事で書いたものは本書のごく一部です。ぜひ手にとって、遭難者の心情・遭難時の詳細な状況を、まるで我が身のことのように思って読んで頂きたいです。

2冊とも、kindle unlimitedで読めます。
(情報は2020年10月時点のものです。最新の配信状況は kindle unlimited サイトにてご確認ください。)

プロフィール詳細はこちら。https://yukamaeda.com/sonohoka/profile/

1件のコメント

  1. 山も海もレスキューか団体訓練受けた人か技官としかいったことないです。人の山か海なら、入会権か殺生権もってたひとと行けと子供に言う大人しかいませんでした。事故あれば皆集合で、家族旅行なんて行ったことないです。子供軽いので吊られたり検証のタイム測ったり。
    雪の遺書は123便の一橋の人が似たの書いて、タオル用意してないと困る。 私は人間コンパスどんな人かわかりませんでしたが、雪山の30センチ前が見えない時も夜になってリフトも見えない時もわかるからとスキーで降りました。後ろについてくれた先生ありがとう。さて北大の雪崩は沢田さんが鏡とグラスで雪庇を確認し、2カ所に分かれてから交代で休まなかったこと。地震が多かった時だから気象台に聞いて磁場が変化しそうな経路はやめてたらと。あと1メートルだったのに、とよく言われてました。気の毒で背広勿体ないから、余り生地の展示もしてほしい。どんな色と柄だったのか。ほかの子も残念です。その人のまわりもだれか行ってたら、それ見て教えないと、子供まであの人は雪庇見て教えなかったひとの子供だって一生言われなきゃいけない。山師のうちの子を山行きに加えれば、高さと東西南北わかるし、天気関係なく時間わかるし、食べられる草とキノコ知ってて便利。医学部の山持ちの人連れて行けば無事だったかも。地図は暗記してね。海もロープとジャイロと緊急ボート無しで行ったことないです。予備バッテリーと発動機も、櫂と照明ないと死ぬでしょ。今は発信機は日光か尼崎に頼めば作ってくれます。ブイは海難時に流すけど、いきてる本人も持ってないと探せないです。浮きは流したか、ってすぐ大人は言ってました。飛行機作ってた家の人たちは何でも屋だって祖父母のいとこたちは笑ってたけど、登ったり潜ったりしても、飛行機乗らないし。船は乗るけど。死んだら困るからって。なんと私の最初のドライブで二回目まで海のレストランで照明弾の光を父が発見し、驚きました。

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